昭和43年9月12日 朝の御理解第85節


 唯今から、昭和43年9月12日朝の御理解を頂きます。

X御理解第85節「女を身の上月役妊娠、つわりに腹痛まず、腹帯をせずして産前身軽く隣知らずの安産産後よかりもの団子汁をせず、生まれた子に五香要らず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道虫けなし不浄毒断無し平日の通り」
とはじめて私一番実行されていない御理解の様に思うのです。男の私達には、あんまりわからない。言葉が使ってありますから。人間の知恵とか、損とか言ったようなものは実に神ながらと言えば、このように神ながらにあることを説いてある御理解はないようですね。人間が生まれてくるのも自分の考えで生まれてくるのじゃあない人間の力で出来るものでもない。ですから、やはり、本当は神ながらにそれこそ成りゆきのままに、おかげを受けたら、いいのでしょう。けれども、人間が少しでも楽に少しでもというその少しでもと言う考えがさまざまな工夫になり、これが、いろんな迷信的な事になったり、医学的になったりするわけですね。本当にここに御理解下さってあるように産前身軽く隣知らずの安産のおかげ頂けたら、女も本当に楽です。女も大役とこういうけれども大役じゃなくて本当に普通の変わりない平日の通りのおかげを頂けるのでしょうけれども、やはり、ここんところ、例えば、医者に参りますと医者の言う通りに致します。産前妊娠のおかげ頂いたら、こういうことに注意をしなければ、いかん。こういうものを食べちゃいかん。こういうことをしないといけん。と言うふうにそのやはりそれにかたまってしまい、それを信じるわけですね。みんなが神の言うことは途中で落としてしまうという御理解がありますが、神の言うことをなかなか聞かずに守られていない御理解だとこう思うですね。私どもはよく分かりません。けれども、やっぱり私方あたりでも、、これは妊娠のおかげを頂いたら、もう出来るだけ高いところに手を上げたり、するなとか、又は一生懸命たち働くもう生まれるまで一生懸命働く、疲れても働く。そうすると、安産のおかげを頂くと言うふうに言われております。けれども、おかげを頂いて生まれますと後は私の方あたりでは、母がやかましいですから、日の晴れるまでは絶対動かせません。もうお風呂にも入れません。腰湯です。いわゆるお教えとは反対になる訳ですね。もう教祖が、教えておられる。すぐにでも平日の通りとこういうておられますね。それから、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、とこういっておられる。そこには、頭痛、血の道虫けなしと生まれた子供までが虫けなんかないと言われておる。結局そのこうした自然と言うか、その働きと言うものを無視して少しでも楽になりたい、少しでも楽になりたいというのが人間の浅い考えでああがええ、光がええ、と言うふうに致しましてから、いわゆる虫けもありゃあ、ここにある産前、産後の様なさまざまなわずらわしいというものが、あるわけだろうと思う。これは、分かりません。確信は出来ません。けれども、ここに段々医学が進んで参りましたから、はっきりしておることは必ず、幾月か経ちますと腹帯を致します。最近の学説ではですね。先日も聞かしてもらったんですけれども、帯をさせないほうが本当だそうですね。腹帯はせぬ方がいい。医学的にも教祖のおっしゃっておることが、百年前に言っておられることが、実証されて来ておるのですから、これは他のどれも一つ一つがそういうふうに必ず、実証される時が来ると私は確信致しますね。ところが、その私どもの心の中にです。今までの体験から、いわゆる年寄りの人たちが言い違えて来たことを自分も体験して来たことを若い嫁さんたちにやっぱりそれを教える。ここでなからにゃいかん、ああでなからにゃいかんと言うようにその教えられてきておりますから、結局それを守るからいわゆる、女の身の上、月役、妊娠、つわり、腹痛まず、と言うように腹が痛んだり、さまざまの異状があるわけですね。隣知らずの安産のおかげを頂けることが、やはり、生みの苦しみと言う苦しみを通らなければならない。母の乳をすぐ飲ませと言うことも実行されていないのでしょうが、血の道、虫けといった様な事と後々までそういう難儀が伴っておる。これはもし私が女なら、本気でこれを実行してそれを実証したい。それもね、唯半信半疑では、いかん。神の言うこととしての確信を持っておかげを頂かなければならない。人間の考えで出来る事ではないことを私どもは後先だけを人間の考えで致しますところにです。これはちょうど日柄とか、方角とか、方位とか言ったような事を言うことが天地に対する無礼であると言うふうに教えておられますように私どものこの身の上のこと、体の身体の上におきましても人間の考えを入れる事はです。これは、神様の機惑にかなわぬ御無礼になることがです。たとえて言うならば、生みの苦しみとか、又はそれまでに例えば、つわりの難儀とか言ったようなものが、あるのじゃあなかろうかと自分でこれは私が思うわけですけれども、あるのじゃあなかろうかと自分でこれは私が思うわけですけれども。実を言うたら、不浄毒断ちなく平日のとおりおかげを受けられる。それを私どもの小さい浅い考えで妊娠又は出産についての知恵というものが、現在の様な状態である。これは、本当に今申しますように医学でも立証されている。これは外のことですけれども、私は人間の知恵、力と言うものは、もう限りがあって、どこまで信じてよいか分からない。それを信ずることはそれこそが迷信である。現在の医学ではこうだと言う学説があるが、それを皆が信ずる。けれども、それが何年が経ってその学説が覆されて新たな学説が出ると、その学説をみんなが守る。それを信ずるそれまでは嘘の事を信ずることになる。ですから、やっぱり、本当のことじゃあないわけですね。これなんか、難しい実際自分の身の上の事になってみると難しい事なんでしょうけれどもです。ここんところを正直に神様の教えてくださること素直にそれを聞けれる時代が必ず来るだろうと思いますですね。そうすることになる。例えば、腹帯をしないと腹おびをせんでもいいとこういっておられるが、ここでは一つの本気でその信心の帯をしっかりしとかんとやはりこれは守りにくいことじゃある。後が大事だかからと言うことになる。盲腸なんかを手術いたしますと、一週間なら、一週間ベットの上から動かれない。それがついこの頃まではそれを実行しておった位ですけれども、現在では手術したら、すぐ歩く稽古をさせるそうです。それが新しいいわゆる学説なんです。ですから、人間の頭いわゆる医学が必ず下本当でないと言うことをです。ここでは、一つ分からなきゃいけない。私どもの考えいえこればっかりは、いかんがのと言うて、 その私の母達は家内に申します。もうお産の後は絶対日の晴れるまでは母親の方も安楽に寝ていないといけないと言うふうに申しますけれども、実際はそれは本当じゃあない。だから、それを学説の上でも実証される日が必ず来るであろうと私は思います。教祖がおっしゃっておられるようにそこに今度は本当にお産についての難儀と言ったようなものが、前後にあります。難儀も段々解消されてくるのでなかろうかと思います。そこでこの御理解から、これは、特に女の方のための御理解だと思います。けれども、その女のほうに対する御理解を頂いてから、誰でもここで分からしてもらわなならんことですけれども、確かにお教えの本当のことと言うのは、私どもの小さい常識と言ったような判断では出来ない事ばっかりだと。そこで、場合にはですね。非常識と言ったような事が普通で言うならば、非常識なことが信心の常識と言うことになるのでございます。それはどげん考えても無理だと言うようなことを例えば、それが常識になる。そこんところを私は素直に頂き、素直に分からして頂こうとする。私は信心姿勢が出来ませんと信心がいよいよ、力のないもの、いわゆる常識的な物になる。常識でしか判断できないような程度のおかげにですね、なってしまう。いわゆる、自然の例えば、働きと言うもののすさまじいまでにとこういわれるそういう、**頂けるはずである。おかげの上でもそうである。だから、この御理解を頂いて私どもはいよいよ私どもはいよいよ私ども信心させて頂いておる者は常識と言うものを一つ物事を常識的に考えてはならないと言うことは日々お教えを頂いておりますと確かにここでは非常識なことばっかりをいわば、超常識的なことですね。言うならば、その常識を超えたところの私ども人間の知恵、力では手の届かないところのお教えを頂いておる。だから、そこには私どもが*も思えないような感じられないようなおかげが頂けるわけです。しかも、それがね、私がここで思うことはそうした自然の働きをかえって人間尾浅い力で浅い知恵で邪魔をする。産前産後例えば、楽でおられるのを自分から楽でないようにする。しかも、生まれた子供に迄、それが残る。例えば、虫け何かと言うのはもうお母さんの妊娠中の例えば、不摂生と言ったようなものではなくて、まあ、いうなら、信心で言う不摂生ですね。言うことを聞いていないことが原因しておる。だから、神様の働きはもう実に微妙ですから、どこまでもおかげはおかげとつながっていき、難儀は難儀でつながっていくのです。この辺のところをすっきり本気でね、教祖の言うておられる事を実行出けれる信心をですね、身につけていきたい。それには、私どもの小さい常識はやはりもう右にする、左にする。これは右にしたほうが幸せになれそうである。それがよかるごたるである。よいと思う。けれども、神様はいいや、反対がええ、其は反対例が良いと言うて下さる事なんかは確かは私は常識と言うものをしずして下さる。事なんかは確かに私は常識と言うものをしずくしてくださる。超常識でいく事を私どもに願ごうておってくださることだと思うのです。ですから、問題事柄と言うことだけではなくて女の体の生理の上においてでも出産と言ったような事についてでもです。はっきり、産前産後のおかげ迄もおかげを頂ける道を教えをちゃんとここにしてくださるんだけれどもそういう沢けにはいかん。こればっかりはと言うて私どもがですね、云っておる様なことが事ある中にもあはしないだろうかと云うことです。この御理解を通して私どもは男性の方達はそういうふうにこの御理解を分からしてもらわなければいけない。女の方達は一つは本当に元気な心をもって勇*心をもってです。本当に隣知らずの安産のおかげの頂ける様なしかも生まれた子供たちは本当の幸せと言うことを願うなら、これはここでは虫けと云うておられますけれども、これは虫けを云うことだけではない。その子の本当の又おかげの上にもです。必ず、つながることがあるだろうと思うのです。女の身の上月役、妊娠、つわりに腹痛まず、腹帯をせずして産前身軽くとなり、知らずの安産、産後よかり物、団子汁をせず。このことは私は意味が分からない。皆さんがたは分かるとお毛ですね。生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道虫けなし、不浄毒断ちなし、平日の通り。こういう平日のとおりと言うようなおかげを頂かして頂くためにもです。他のお教えもこれと同じこと。私どもが人間心とか常識とか云ったようなものをいっぺん捨ててしまわなければ、本当に教祖様のおっしゃるお教えと言うものは見易い様であっても頂けない。けれども、それを頂いた自分が確信出けられるとこのように見易いことはない。言うておられる通りにすれば、いいのであるから、そこでです。私どもの本当のおかげというかね、自然と一体と言うかね、成りゆきと一体になることの中にです。神様と共にある実感と言うか、そういうおかげの頂けるものですね。こういうところを完全に自分のものにしていく金光教の御信者さんだけはです。本当に教祖様の教えでおられる通りの事がです。それだけは出来んと言った様なことではないようなおかげをですね。体験させて頂いてそしてまあ、言うならば世の中だけでも私どもが本当にこれをこうじてそういう体験を頂いていったら、どのくらい女の人が楽になる事かわからない。確かにこう片手落ちと言うかね、神様はそんなはずはない。女だけに産む、苦しみを与えておられるはずはない。産みの苦しみと言うのは人間の作った言葉、女だけが苦しまなければならないはずがない。女はおなごというて御を***そんな理屈をつけて、そんなはずはないと確信させて頂いていただけれるおかげ、同時にこれは他の体だけの事ではなくて他のお教えにも又、他の事柄の上にもここんところをですね、頂かして頂くためにも、私どもは如何にも常識的な生活が出けれる。そこには心やすいというかね、神様の仰せどおりに仕っておれば、このような楽なことはない。子のようなありがたいおかげを頂けるのにと言ったような一つの体験にまで進めて行かねばならないと思うですね。どうぞ。